経済開発を最優先課題に工業化政策を推進

タイが工業化に向けて開発体制を整備していこうという意識を、歴史上はじめてみせたのは、一九五八年以降のことであった。この年にサリットが軍事クーデターをおこし、ピブーン政権を倒して全権を掌握した。サリットはもちろん軍人であり、彼ののちに政権をつくったタノームもプラパートも軍人であった。軍のトップが、首相はもちろんのこと内閣の中枢を占め、この軍部支配のもとで経済官僚テクノクラートを行政の任にあたらせる、というパターンがその後のタイの開発体制の基本となった。官僚テクノクラートが経済開発計画の立案と施行の責を負い、国内企業の保護、外国企業の導入などを通して、経済開発を最優先課題に工業化政策を推進していった。

タイにおける、「開発」という明瞭な目標をもった権威主義開発体制は、サリット政権のもとで開始されたとみていい。もっとも、サリット政権の経済政策の基本は、IMF国際通貨基金)や世界銀行の勧告を取り入れた規制緩和ならびに外国資本の積極的導入であった。サリッ卜にさきだつピブーン政権の経済政策は、この国で大きな経済力をもつ華僑・華人の力を排除して民族資本の育成を図るべく、国営・公営企業を経済の中心にすえた国家主導型のものであった。しかし、国家主導のもとに育成されたこれら国営・公営企業は、官僚の天下りの場であり、いずれもきわめて非効率なものであった。赤字経営は恒常的であった。