自己の「潜在能力の実現」フリーエージェントの成功者たちは「理想の自由」を手にしたのかもしれない

フリーエージェントの成功者たちは「理想の自由」を手にしたのかもしれない。しかし自由を追い求める多くの人々は、厳しい生活に直面しているのが現実ではないか。将来に展望がみえないフリーターたちの状況は、論壇の大きなテーマにもなっている。すでに2000年には、そうした状況を察知するかのように、宮台真司速水由紀子との対談形式で「サイファ 覚醒せよ!」を著している。本書は、自己の「潜在能力の実現」を説いた記念碑的作品であろう。「サイファ」とは、日常生活のなかでは埋もれている超越的・潜在的・宗教的なモメントのことで、人はこの自己の内なるサイファに目覚めたときに新たな活動のエネルギーを獲得する、と宮台はいう。

この啓蒙はまさに、潜在能力の実現を主題化したものとして、時代のニーズをうまくつかんだように思われる。また、現代を代表する二つのマンガ作品、ニノ宮知子「のだめカンタービレ」と三田紀房ドラゴン桜」いずれものちにテレビドラマ化、マンガは現在も連載中。もまた「潜在能力の開花」をテーマとしている点が興味深い。いずれの主人公「潜在能力はあるが、くすぶっている若者たち」であり、彼らはさまざまな出会いのなかで華麗な自己実現を遂げていく。

たとえば「ドラゴン桜」の物語は、倒産寸前の三流高校「龍山学園」に通う二人の学生−水野直美と矢島勇介−が、元暴走族のリーダーで弁護士の桜木健二の強力な指導に導かれて東大を目指すところからはじまる。水野直美は一人っ子で、離婚した父親が愛人といっしよに暮らす家庭に自らの居場所を見出すことができず、悶々とした生活を送っている。矢島勇介は、ある製薬会社の社長の三男で、長男と次男はエリートへの道を歩んでいるが、自分はふてくされて勉強せず、やり場のないエネルギーをもてあましている。この二人の高校生が桜木やその他の名物講師陣に囲まれて徹底した受験指導のもとに自らの潜在的可能性を開花させていくというのが物語の筋だ。

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陪審制のいくつものメリットとは

陪審制度は、なにも単に民主主義だからとか、国民主権だからといったタテマエだけからの制度なのではありません。あくまでも、人々が権利を実現するための手続としてどういうものが効果的か、どういう手続なら望ましい裁判を実現できるかという観点から、陪審制が構築されているという点を見逃してはいけません。

アメリカではかなり効果的で強力な司法制度が運営されていますが、それは陪審制だからこそ、というところが重要ポイントなのです(もっとも、「陪審制度」の対抗馬として「参審制度」というものかおり、日本でこれから議論される「裁判員制度」は参審制度がベースになっていますが、それは後で説明します)。

陪審制になると、いくつものメリットが考えられます。第一に、裁判が速くなるのは必然であることが分かります。一般の人を陪審員として拘束する以上、審理をだらだらとやることは許されないからです。陪審審理では無駄な尋問は許されず、効率的な審理が行われます。

手続を進行させる裁判官や弁護士は、極めて迅速な裁判を実現するために努力することが必要不可欠となるのです。もっとも、陪審裁判だと素人がやるから、余計に時間がかかるように誤解している人もいるようですが、何かの判断を下すというのは、それほど時間かかかるわけではありません。

確かに、素人の方が慎重に考えますし、じっくりと評議もしますから、結論に至るまで専門家よりも時間をかけて幅広く考える傾向はあります。しかし、審理が終わったらすぐに評議をやって結論を出してしまうわけですから、日本の裁判官が何ヶ月も他の事件に手を取られて放置してしまうようなことはありません。

第三世界教育を重視する

「七〇年代に西ドイツで第三世界ショップが続々生まれたのは、先進工業国と開発途上国の間の不公正な貿易関係を公正なものにするための試みだった。この店も七六年に当時の牧師が、第三世界に不利な貿易構造を変える第一歩を踏み出そうと、地域の若い人たちに呼びかけて始まった」客の応対をしていたヒッピー風の濃いひげの男性が話してくれた。近くの教会のトベルハートーアイース牧師で、この店の責任者だった。

「当時の店の二つの目的は今も変わらない。途上国の貧しい農民や女性が作る食品や手工芸品などの物産を正当な価格で輸入して販売し、利益は途上国の自立プロジェクト支援に使うことと、西ドイツ市民に、現在の世界経済や世界貿易が最も貧しい国の人々にどんな影響を与えているかを知らせる情報活動をして、政治教育で変革のための行動を起こさせることだ」店はもっぱらボランティアに支えられていた。学生、女教師、主婦、サラリーマンなどごく普通の市民たちが交替で切り盛りするのだ。中古のマイクフハスを買って、商品やパンフ類を積んで、市が立つときや集会などにも売りに行く。毎年市内の公園で開かれる第三世界フェスティバルはがきいれどきという。年間売り上げは、多い年で十万マルクス百万円)程度だ。

「八〇年代半ば、スタート十年目あたりから店の方針が変おってきた。第三世界の物を売るより、情報を提供する方がもっと重要ではないか。それで、最近は南アフリカとかニカラグアとか危機的状況にある人々を支援することに力をいれている。それとわれわれヨーロッパ、ドイツの人々のぜいたくな消費生活を変えることが、不公正な経済秩序を変える第一歩ではないか」と、マアイース氏は店の一角にぎっしりつまった第三世界に関する本やミニコミやチラシなどを指した。毎週学習会を開いたり、第三世界教育を重視していた。

援助活動の方は、アフリカのブルキナフッソの井戸掘り、ペルーのリマにある障害児施設の増改築、ニカラグアの女性施設建設など、ニール教区のプロテスタント教会の援助プロジェクトに協力していた。「北は南の一次産品を安く輸入し、南は北の工業製品を高く売りつけられる。援助より、まずこういう構造を変えることの方が本筋だが、とりあえず、南の国々で自立しようとしている人たちを応援し、それを通じて私たちが学べれば、意味があると思う」と、マアイース氏は援助活動を位置づけていた。

契約一再契約の法則

私の考えではこれが「契約一再契約の法則」の有無の違いなのである。ヒトラーナチスは、民主主義の手続きによってドイツ国民から選ばれた。このときドイツ国民はヒトラーとの間で契約を結んだのである。ヒトラーは演説で「私はドイツを偉大にすることを約束する」と明言している。両者は国家社会主義の政策でベルサイユ体制下で崩壊の危機に瀕していたドイツを立て直すという契約を交わしたのである。

実際、ヒトラーケインズ流の経済政策は超インフレと高い失業率を解消するのに極めて有効であったし、その初期の軍事的成功はドイツ人のナショナリズムの高揚と利権拡大に大きく寄与したことは否めない。

だがドイツの敗色が濃くなり、バラ色の未来から一転して悲惨な現実が突きつけられるようになると、ドイツ国民はヒトラーに疑念を抱くようになる。前線の兵士から母親のもとへ「僕たちはヒトラーに騙されていたんだ」という手紙が届いたり、ドイツ国防軍によるヒトラー暗殺の動きも出てくる。つまり契約で約束された内容と現実がまったく違っている、契約違反ではないか、という疑念が芽生えたのである。

ここがポイントである。契約はもしその内容に嘘や違反があれば、なんら良心の呵責なしに無節操とのそしりも受けずに破棄できるのである。だからこそ、西欧列強は条約を結んでは破棄するといった歴史を繰り返してきたのだ。

破棄する理由など探そうと思えばいくらでも見つけられるし、理由さえあれば何の躊躇もいらないのである。ましてナチスアウシュビッツ隠しをはじめとして言い逃れできないうそや暴挙を行なっていたのであるから、ドイツ国民もまた何の躊躇もなく「自分たちはヒトラーに騙されていた」という理屈で堂々と自己正当化できるのである。

要するにドイツ国民はヒトラーとの契約を虚偽であるとして破棄して、戦後新たに西ドイツ国民はアデナウアーとの間に、東ドイツ国民はウルブリヒトとの間に契約を結んだわけだ。むろん契約内容は前者が自由主義、後者が共産主義である。しかし、共産主義の契約内容は虚偽であるとして、それを破棄して西ドイツに逃げ出す国民が多数いたことは周知の事実である。

「ローズマリーの赤ちゃん」

ローズマリーの赤ちゃん」の話は、さきにあげたスイスの事件のように、山にへだてられたところでおこったのではない。その背景はニューヨークだった。

著者のアイラ・レヴィンは1929年ニューヨークに生まれ、ニューヨーク大学を卒業した23歳の年に「死の接吻」という有名な処女作を書いて、1953年度のアメリカ探偵作家クラブ賞をもらった作家である。そのレヴィンの第二作めの「ローズマリーの赤ちゃん」はそれから14年もたった1967年に発表され、たちまち全米各誌の絶賛を受けベストセラーズの上位に入って、レヴィン・ファンの期待に見事に応えた。最近は映画化もされ、ショッキングな宣伝で女性客を大いに動員したようであるから、ご記憶の方も多いであろう。

この作品にも描かれた悪魔信仰つまりサタニズムについては後に詳しく述べるとして、ここではこの作品の内容を簡単に紹介してみよう。

「1965年、8月のある日、ガイ・ウッドハウスとその妻ローズマリーは、ニューヨークにあるプラムフォードという百年も昔に建てられた古いアパートに引っ越してきた。ガイは33歳の駆け出しの俳優で、24歳の妻との間に子供は無く、いつかはビパリー・ヒルズに住むことを目標に、目下はテレビや劇場で良い役をつかもうと懸命であった。

ローズマリーオマハの田舎から出てきていて、ニューヨークで働いているうちにガイと知りあい、カトリックの実家の反対を押しきって新教のガイと結婚したのであるが、以前の一室だけの狭いアパートに比べて今度の4室もある広い生活には大満足であった。

しかし彼女の古くからの親友で作家のハッチは、プラムフォードが前世紀からさまざまな魔法使いたちのいまわしい事件の舞台であり、ここで自殺する者が異常に多いこと、つい5、6年前にも地下室で新聞紙にくるまれた赤ん坊の死体が発見されていることなどをあげて、彼女たちがこのアパートに住むことには心から反対していた。

引っ越してまもなく、ガイ夫妻は親切な隣室の住人、かなりの年のローマン・キースとその妻デリー、それにその若い養女と知りあった。養女のほうはある日の真夜中、アパートから身を投じて死んでいるのが発見されたが、彼女が生前身につけていたタニス入りの薬玉を、その事件のあとローズマリーはデリーから贈られた。ローマンたちとの交際が始まると共に、ガイにはたびたびひょんな事から災難にあった友人の代役が回ってくるようになって、ガイはローマンたちとますます親しくつきあうようになっていた。

そうした幸せなある日、ローズマリーは夕食にデリーが持ってきてくれたプリンを食べたあと、はき気を催して倒れ、ガイの手当てを受けて休んだが、その夜、奇妙な恐ろしい夢を見たのである。それは、ローマンとその仲間の老人たちがベッドの上の彼女を裸にしてしばり、合唱をする中で、えたいの知れない何者かに自分が犯されてゆく夢であった。

しばらくして彼女は妊娠した事を知った。ガイは喜んでローマンたちにも知らせ、彼らはこの地で一番の産婦人科医だというサパースタイン博士を彼女に紹介した。待望の子供が愛するガイとの間に生まれる喜びで夢中の彼女は、ハッチが紹介してくれたヒル先生を断わって、ガイもすすめる博士のもとに通うこととなった。

博士のくれる痛み止めは薬草であり、デリーが毎朝彼女のために作って持ってくるジュースもタニス入りであったが、彼女はひどい痛みに悩まされ通しで、日に日にやせおとろえていった。様子を見に会いに来たハッチは彼女のおとろえぶりに驚き、クリスマス近くのある日、彼女に会う約束をしたが、その日彼は突然原因不明の病気で倒れ、翌年6月、妊娠10ヵ月の彼女に一冊の本を残して病死した。

その本は「悪魔使いのすべて」と題する部厚い本で、魔法や悪魔崇拝の詳しい説明と共に、悪魔にとりつかれた人々の名前や彼らが儀式に使う薬草の名などが書かれてあった。ハッチが最期に彼女に残した言葉にしたがって「文字遊び」の文字を拾いながら本の題名の文字をいろいろ組み合わせてみた彼女は、ローマンが実は今世紀初めプラムフォードに住んでいた悪名高い魔術師、アドレアン・マカトニーの息子である事を知ったのである。

以来、ガイやローマンたちの行為が悪魔のそれである事を知った彼女は、出産予定日も近づいたある日、一人でヒル先生を訪ねるが、結局はガイや博士につれもどされ、自分のベッドの上で出産を迎えた。目をさました彼女は子供は死産であったと告げられた。

しかしある夜、隣室から赤ん坊の泣き声が聞こえるのを耳にし、ナイフを片手にローマン家にしのびこんだ彼女は、そこにサタンを信奉するローマンの仲間やガイが集まっているのを見、彼らの真ん中に置かれた黒いゆりかごの中で泣く我が子を見たのであった。しかしのぞいて見たその子の目には白眼も虹彩もなく、「サタン万才!」の叫び声の中で彼女はただぼうぜんと無意識のうちに、”かわいそうな我が子”をあやし始めていた。」

この本から悪魔についてのべようとしているのではない。そうではなくて現代の私たちの心にも巣くっている不可思議な非合理的なものの仕組みをあきらかにしてみたいのだ。

政治的な憎みあいも、ニューヨークやパリや東京をおおいつくすきちがいじみた流行のさまざまな形態も、あの蒼古的な精神のしわざではないだろうか。私たちは本当に悪魔や魔女の時代の意識から自由になっているのだろうか。

経済開発を最優先課題に工業化政策を推進

タイが工業化に向けて開発体制を整備していこうという意識を、歴史上はじめてみせたのは、一九五八年以降のことであった。この年にサリットが軍事クーデターをおこし、ピブーン政権を倒して全権を掌握した。サリットはもちろん軍人であり、彼ののちに政権をつくったタノームもプラパートも軍人であった。軍のトップが、首相はもちろんのこと内閣の中枢を占め、この軍部支配のもとで経済官僚テクノクラートを行政の任にあたらせる、というパターンがその後のタイの開発体制の基本となった。官僚テクノクラートが経済開発計画の立案と施行の責を負い、国内企業の保護、外国企業の導入などを通して、経済開発を最優先課題に工業化政策を推進していった。

タイにおける、「開発」という明瞭な目標をもった権威主義開発体制は、サリット政権のもとで開始されたとみていい。もっとも、サリット政権の経済政策の基本は、IMF国際通貨基金)や世界銀行の勧告を取り入れた規制緩和ならびに外国資本の積極的導入であった。サリッ卜にさきだつピブーン政権の経済政策は、この国で大きな経済力をもつ華僑・華人の力を排除して民族資本の育成を図るべく、国営・公営企業を経済の中心にすえた国家主導型のものであった。しかし、国家主導のもとに育成されたこれら国営・公営企業は、官僚の天下りの場であり、いずれもきわめて非効率なものであった。赤字経営は恒常的であった。

マネジメントから財政計画化へ

一九八〇年代に入って日本の財政は。一段ときびしい歳入欠陥状況におかれた。第二次臨時行政調査会の設置以降、内閣は次第に概算要求基準(シーリング)をきびしくし、マイナスーシーリングの時代を迎えた。経常部門ならびに投資部門別に、前年度予算に比較した減分率が要求官庁に示され、要求額を拘束した。もちろん、マイナスーシーリングとはいっても、防衛予算やODA(政府対外援助)予算は枠外とされたし、年度途中の補正予算には適用されない。ともあれ、この概算要求基準の設定は、緊縮予算を必要とする時代のカットバックーマネジメント(歳出削減)手法として活用されてきた。

しかし、この種の力ットバックーマネジメント手法は、予算減額の痛みを各省庁・利益集団が、等しく分け合う日本的手法の域を越えるものではない。しかも、マイナスーシーリングは、いかにきびしく設定されようとも、各省庁が減額分を前年度予算のどこからか捻出すれば問題は片づいてしまう。「根雪」ともなっている大部分の予算や事業は、ほんとうに必要なのか、事業効果がどのようなものであるかなどは、予算編成過程の焦点とはならない。極端なことをいえば、マイナスーシーリングを厳格にすればするほど、予算査定官庁からは、政策や事業評価についての責任が薄らぐ。

だからこそ、公共事業予算に端的にみるように、「根雪」部分の財源を求めてさまざまな会計操作が行われる。さらには所詮、事業効果の評価とは無縁であるからこそ、それを知る公共事業関係の族議員集団からは、マイナスーシーリングの撤廃を求める声が、「政治主導の予算編成」の名のもとに、沸き上がってくるのである。

きびしいスタグフレーションの時代に登場したアメリカのカータユ算の編成にZBB(ゼロベース予算)の導入を定めた。これは、予算会計上のもっとも下位の部局を基本として、意思決定単位(ユニット)を設定する。ユニットごとに、実施されている活動を続けるにしても資金の水準が下がり、事業存在の意味をなくす水準をゼロベースとしたうえで、これを廃止したばあい、一定の予算額を上乗せしていったばあいに、どのような効果が生まれるかを分析する。このような分析を繰り返すことで、既存の政策目的の妥当性や代替的活動をみいたそうとするものであった。

もちろん、PPBS自体は、事業評価をもとにして代替的活動を探し出そうとする予算改革は、一九六〇年代のPPBS(計画事業別予算)の試みを引き継ぐものであった。これは、政策の基本的目標を明確にし、その目標を産出指標として客観化し、目標達成に必要な事業の選択肢を費用・便益分析によってみつけるものだった。PPBSもまた全連邦政府予算への導入がいわれながらも、それに成功しなかった。