他人の国境線で悲劇を背負う

一九七六年十二月、筆者はかれらの居住地区を訪れたことがある。イラク政府の特別許可をもらっての旅行で、情報省の若い職員がついてきた。「クルディスタン共和国」建設の夢を破られた住民は、中央政府に従順で名目的な「クルディスタン自治区」に甘んじているふうであった。政府軍があちこちに展開し、軍用車の往来がひんぱんだったが、まずまず安全な旅行であった。暖房が不十分でふるえあがるように寒いホテルで、タルト語の白黒テレビーニュースで田中角栄氏の映像を見たことを記憶している。イラク政府は北部のタルト人を南部に強制移住させるなどの荒療治をした。かわりに南部のアラブ人を北部に移したのであるが、これはエスニック集団の団結を破壊して統治しやすくする試みだろう。エスニシティに基づくタルト共同体を弱める工作ということもできる。タルト人が集中して住んだ北部には、モスール、キルクークといった油田があり、タルトの要求通りに自治を認めると、イラクの国家経済が打撃を受ける。中央政府としても、背に腹はかえられ
ぬところだったわけだ。

そうしたムチの政策の一方で、中央政府は穏健なタルト人を厚く登用するアメの政策もとってきた。たとえば、ターハーモヘッディンーマアルーフ副大統領はタルト系である。一九七七年に副大統領として来日したこともある彼は、今日もまだその地位にある。ただし、強い政治権力を行使する立場にはないようだ。また、一九八六年七月、駐日大使から北京駐在大使に転じたムハンマドーアジャフ氏もタルト系である。ダンディーでソフトな語り口の彼は、多くの友人をつくり、東京勤務を楽しんでいた。東京都内のホテルでのサヨナラーパーティで、外交団長のマンスフィールド米国大使は、「東京で最も効果的に活躍した外交官の一人」と賞讃の送辞をのべた。

イラクと米国は一九八四年十一月に、六七年の第三次中東戦争以来、断絶していた外交関係を回復、静かに協力の実績をあげている。そんな背景はともかく、アジャフ大使は子息を米国で教育させたほか、自分もひんぱんに米国を訪問するといったタルト人である。さて、ジャー時代のイランから受けた屈辱が、のちのイラクによる対イラン開戦の背景になるのだが、こうした積年のイランーイラク緊張関係のなかにあって、タルト人をめぐるエスニシティ問題がひとつの重要な側面をなしていることはもはやいうまでもない。タルト人はそれぞれの国の中では、少数民族である。しかし、五力国に分散するタルト人の合計はさきにも書いたように八百万とも千六百万ともいわれる。この人口は中東では相当なものである。イスラエルの人口が約四百万、ヨルダンが約二百三‐万、イラクが約千三百五十万、シリアは約九百三十万にすぎない。タルト人目はそのいずれをも上回っている。にもかかわらず、国家をもってはいない。

国家はもたないが、独自の国家をつくりたいという共通の願望をもつほか、同じ伝統、慣習、文化的背景を継承し、ひとつのまとまりを形成していることも否定できない。それが既存の国家の体制をつきくずす要素とエネルギーになっているといえよう。ではなぜ、タルト人のように小さからぬ民族体が五つの国に分散するようになったのだろうか。タルトという名前が定着して使われるようになったのはイスラムが誕生した七世紀以降のこととされる。バグダードを中心に東は中央アジアから西はアフリカ大陸北部のマグレブまでを支配したイスラムアッバース朝が、政治上の実権を失い始める十世紀、タルト人は二つの地方王朝を樹立して自立している。十字軍を撃退してエルサレムを奪回した英雄サラディンは十二世紀に活躍したタルト人であった。

その後、タルト人の居住地域を舞台として戦ったオスマン帝国とサファビー朝ペルシアは十七世紀、初めてあいまいながら境界線を画定して和平を結んだ。この時点こそタルト民族の分断の始まりになったといえる。タルト人による民族国家や自治区を樹立する運動はその後も繰り返されたが、できてはつぶされ、できかかってはつぶされるという状況であった。五ヵ国に分散するという異常事態が出現するのは、第一次大戦後、列強がそれぞれの利害を調整したうえで中東各国の領域を決めるための国境線を引いた結果である。タルト国家は実現せず、タルト人は五つの国に少数民族として押し込まれてしまったことになる。タルト人が相互に接触、交流するためには、何本かの国境線をこえねばならない。