「国連」の名のもとに

国連は、加盟国の剥き出しの利害が衝突する現場であり、国際社会の調整の場なのだと言える。自らどう国連を利用し、主張を通すかについて心を砕くことはあっても、その決定を、絶対視することはないだろう。国益と国連の決定は必ずしも一致しないし、国連の決定が必ずしも正しいとは限らない。安保理の決定に加盟国は拘束され、国際協調を求められるのは当然としても、それを批判し、その主張を他の諸国に働きかける自由は残されている。国連平和維持活動についても、どのような条件で、どのようなかかわりをするかについては、それぞれの加盟国の意思に委ねられた問題だ。

つまり国連は、加盟国の支持や主張に支えられて、初めて力を持ち、機能を発揮できる国際機関であり、加盟国の能動的な働きかけがその動向を左右する存在なのだと言えるだろう。こうしたことを改めて書くのは、湾岸危機以降、「国連中心主義」の名のもとに、日本の政策を議論する傾向が一層強まったと感じられるからだ。「国連の要請」の内実は、米国からの圧力であったり、「国際貢献」を求める声が、実際は国内からの主張であることは珍しくない。「国連」の名のもとに、すべてを決定済みの既定方針として受け入れるのではなく、実際は国連に加盟するどの勢力の主張であり、圧力であるのかを個別に判断し、その上でどう国連にかかわっていくかを検討するのが筋道ではないだろうか。