現代に生きる幻の大運河計画の遺産

川崎河港水門は大正一五年一一月に着工、二年半後の昭和三年三月に完成した。工事費五四万円、設計者は内務技師の金森誠之。それにしても、水門の背後にひかえたわずかな荷揚げ場と船溜りにしては、ちょっと大げさな構造物である。だが次のような建設の事情を聞くと、その規模もなるほどとうなずける。多摩川のたび重なる出水・氾濫に苦しんだ沿岸町村は、何回となく築堤の早期実現について県当局に陳情・請願を繰り返していたが、事態はなんら進展しなかった。明治四三年の大洪水でも、多摩川の築堤工事は延期されたので、業を煮やした沿岸住民はついに立ち上がった。アミガサ(編み笠)事件である。

住民数百名が、目印のアミガサをかぶり、大挙して県庁へ押しかけた。そのときは何らの成果も得られなかったが、大正五年には、「有吉堤」の完成となった。県知事の有吉忠一は、地元の要望を受け入れ、内務省の工事中止命令を無視して築堤工事をおこなった。地元では感謝の意味を込めて「有吉堤」とよび、今でも市内に遺構が存在する。

そして大正七年には、半額国庫負担の多摩川河川改修工事にこぎつけた。河港水門付近の堤防工事は、大正一三年に着工された。水門の傍らにある味の素(株)では、当初の計画通りに堤防がっくられると、工場は、堤防の河川敷寄りになって不便になる。そこで味の素では、堤防の位置変更にともなう費用を寄付して、堤防内に工場を取り込んでもらった。工事は一四年八月に完成。「堤防の完成によって、その後は水の憂から免かれ、且つ敷地の拡張も許される事となった」(『昧の素沿革史』)

河港水門は、当初、市の中央部を縦貫して日本鋼管(株)の横にぬける運河・港湾計画の一貫として建設された。そこには、第一次世界大戦による好景気で足りなくなった市内の工場敷地を、将来の発展に備えて開発しようという目論見があった。堤防の一部を運河の入口とするためには、しっかりした水門をつくらねばならない。多摩川改修事務所長であった金森誠之は、水門建設費の一〇万円を昧の素に寄付するよう勧誘した。味の素では、運河の重要性を考え、一五年七月、寄付に応じるとともに、運河の入口近くに自家用の専用河港を築造するよう依頼した。工事費は二万七三〇〇円であった。

その後、運河・港湾計画は現在の川崎区内を対角線に横切る大運河計画となって、昭和一〇年一月、国の認可を得た。運河は三等と四等の二種類があり、河港水門から池上新田に至る運河がメインに位置づけられた。ルートは、市街地の中島と大島の東側を通り、市街地をはずしていた。全長二・八mである。三等級の運河幅員は四〇〜四七mだが、このルートは臨海部では孵溜りも兼ねたので、運河幅員は五五〜一六五mと広く、中流域では五五mとそれぞれ一等級の幅員を有するものであった。