民事紛争に対するエリート意識とは

普通の裁判官は、典型的な議論のパターンに乗らないと不安であるようです。そのため、とにかく形式的に、なるべく問題が起きないようなベースで、そつなく処理しようとするばかりです。正論をつぶすためには、あらゆる屁理屈までが裁判では威力を発揮します。

そうした屁理屈をも「まじめに取り合わなければならないのが裁判所だ」というタテマエがあるからです。結果として、裁判所での解決は、どうも実態から外れるようなことにもなりがちです。裁判所には、簡単に無視されやすい理屈というものがあります。

無視されやすいのは、裁判官によってもかなり違いがありますが、とても難しい理論とか、外国では常識だが日本では裁判官が不勉強であるが故になじみがない議論とか、既存の体制に楯突くから下手に採用すると最高裁に睨まれそうな主張とかが挙げられるでしょう。

ところが、無視しやすいはずなのに、なぜだか一部の裁判官にとても強く支持されている屁理屈などは、かなりしぶとく残ります。例えば、「お役人の公務におけるプライバシー」のような屁理屈(私はこれなど初めから考え方が矛盾していると思うのですが)は、なかなか片づけられないで最後まで重視される理屈の一つです。

こうしたいろいろな屁理屈に付き合っているうちに疲れてきて、「もうこれくらいでいいでしょう。水に流しましょう」という話になるのです。何度も言っているように、裁判官は多くの事件をかかえさせられ、それらの事件は、裁判官にとってあまり重要そうには見えないものなのです。

特に民事紛争は、所詮、エリートから見れば「下々のケンカ」にすぎないのかもしれません。社会の問題を解決するのが本来の仕事である裁判官でさえ、そういう感覚しかないようです。