旧知の文学者

あの作品で、私は終わりに、妻の手術は一応成功するが、とにかく私たちはみんな、避けようのない死に向かって、残りの少なくなった歳月を過ごして行くしかないのだ、と書いている。そして、あれからもう十四年も、避けようもなく死に向かっている残りの少なくなった歳月、を過ごして来たのだ。ますます私の残りは少なくなったが、それにしても、江藤さんにこんなふうに先立たれてしまうとは。私には、つらい、と呟くことのほか、言葉はないのだ。

江藤さん、あなたは私に較べると、万事過激で、逃げ道のないところを突っ走って行かれたね。奥様の病気にしても、江藤さんご白身の病気にしても、逸らしようのないものを突き付けられましたね。逸らしようも、紛らわしようも。馴らしようもない、厳しい道を江藤さんは孤独に進んだ。その心の襟を想像すると、なんともつらくて、身の縮む思いになるのだ。

思えば、愚妻が北里大学病院で手術を受けることになったとき、北里大学で教授をされている桂芳久さんに連絡するよう江藤さんが言ってくれて、江藤さん自身も桂さんに連絡をとってくれたのだった。桂さんは私にも旧知の文学者で、私ももちろん、桂さんに言って、その後逝去した新井婦人科部長に紹介してもらった。新井教授は、家内の癌はまだ一期で、危険度は五パーセントぐらいのものだ、と言った。それでも教授は、患者のショックを懸念して、癌だと明言しない方がいいのではないかと言った。

けれども私は、五パーセントの危険度なら、はっきり病種病状を伝えた方がいいと判断して伝えることにした。ところがその後、病室の主治医から、危険の率は五パーセントではなくて、四〇パーセントだと言われたのである。そのパーセンテージは、今度は私は隠した。「龍陵会戦」は、そういったことも書いた私の戦争小説だが、家内は死を免がれ、私はやもめにならずに、あれから十四年たって、江藤夫人がなくなり、江藤さんもまた亡くなった。