財政規模は膨張の一途をたどる

民主主義政治にこうした「非対称性」が避けられないかぎり、好況・不況をともに含んだ中長期でみて、財政赤字はとかく放置されがちになるとともに、財政規模は膨張の一途をたどるにちがいない。もちろん、財政規模にしても財政赤字にしても、それ自体が絶対悪だというわけではない。しかし、それらのとめどもない膨張はまったく別問題だろう。総需要の刺激はやさしいが、その抑制はむずかしいから、経済は必ず慢性的にインフレぎみになるということはただちに明らかだが、問題はそれだけではない。

赤字財政とは、これを納税者の立場からみると、政府との関係において、コストを負担しなくとも、便益だけは享受できるということにほかならない。もしそういううまい話が可能ならば、納税者つまり選挙民は、政府からひたすら多くを獲得しようと考えるだろうし、政治家はそうした劣情に応えて次から次へと「公約」を乱発するだろう。

国民の「自助努力」の精神は衰え、それに代わって世には「たかり」もしくは「ただ乗り」精神が横溢する。そしてそうした中で、経済全体に占める政府部門のウェイトは上昇の一途をたどるだろう。たしかに、政府でなければできない重要な仕事も数多いとはいえ、他方、政府の仕事には所詮。虚業にすぎない側面が多いことも否定できない。経済全体に占める政府部門のウェイトが高まるとき、その経済は必ず非効率化する。

金融面つまりマネー・サプライ面にも、財政面ほどではないにしろ、やはり「非対称性」はあるだろう。通貨当局すなわち中央銀行総裁は、財政当局すなわち大蔵大臣のように、直接に選挙の洗礼にさらされることはないとはいえ、純粋な「中立性Lを維持できるわけではない。マネー・サプライはともすれば過剰ぎみとなり、それが財政面から来るインフレ圧力をサポートすることとなる。

しかも、いまかりに真に硬骨な中央銀行総裁がいて、財政面から来るインフレ圧力をきっぱり断ち切るよう、マネー・サプライをきびしくコントロールしたとしても、それで問題が解決するわけではない。財政需要を強いままにしておいて、総需要を抑えるべくマネー・サプライをコントロールすると、割りを食うのは民間需要だろう(専門家はそのことを「クラウディングーアウト」と呼ぶ。経済全体に占める政府部門のウェイトは、そのことによってよりいっそう高められる。