組織化されていない方法論

1973年春、私はサン・フランシスコ近郊のヘイワードにある、カリフォルニア州立大学に勤めていた。そのキャンパスにある日のこと上智大学のデル・カンパーナ教授が、突然訪ねて来た。イタリア人で当時上智大学国際部の大学院主任であった教授は、上智大学に勤めることになった私に、社会学のカリキュラムの相談に来たのである。キャンパスのカフェテリアの一隅で会った氏の話によると、大学院の社会学のコースには、興味のあるセミナーはあっても理論と方法論のクラスがない。

そこで日本に帰ったら早速基礎的な講座を開講してほしいということであった。私はあのデル・カンパーナ教授の話を聞いたとき、10年ぶりで日本の現実に連れ戻されたのであった。10年前アメリカでの研究生活を始めた時、私はアメリカの大学では、理論の基礎的なコースが確立していることに感じ入った。いやそれ以上に方法論の講座が組織化されていることに、新鮮な驚きを覚えた。

その後、私はアメリカの大学に落ち着いて生活を立てるまでになった。その間に理論と方法とが、全ての学科の中心を構成しているという学問の仕組が、私にはいわば空気のように当然のことになってしまった。それが今、理論と方法の訓練が独立の講座として確立していない日本の大学に、帰ることになったのである。

私は日本の大学の現状を知って失望と闘志との入り交った、不思議な感情におそわれたのを覚えている。その年の9月、私が日本に帰ってからの感想を一口で言えば、日本の大学における教育はまだ一時代前の、教養主義の色濃い教育なのではないかということであった。これに比較して少なくともアメリカの大学における、教育の中心的機能は、すでに理論と方法における基本原理の学習に、移っているのではないか。