自国人以上に自国人らしい

サンスクリットには「地球全体が私の家族(ヴァスダイヴアークタンバカム)」という言葉がある。3000年の昔から、地球全体が自分の家族であるということを意識しているのだ。今見えていなくても、会ったことがなくても、地球のどこかに存在する人は私の兄弟である。いつどこで会ってもそれは自分の兄弟だから、つきあいに遠慮はいらない、となる。インド人に「中」と「外」という考え方は基本的にない。宗教的にも、ヒンドゥー教以外の宗教を排除していない。仏教、ジャイナ教シーク教ヒンドゥー教にとって自分の子どものようなもので別宗教ではないという見方だし、外からイスラム教、キリスト教が入ってきた時もヒンドゥー教は抵抗しなかった。外国人にとっては、インド人ほど付き合いやすい人種はない。外国人にも白国人と同じように付き合う。だから、アメリカに住んでも、アイルランドに住んでも、日本に住んでも、「この国の人よりこの国の入らしい」と言われてしまうのだ。

キヤノン時代にある食事会に参加した時のこと、同席していた遠藤専務が、「ローラは一見ドライに物を言うが、意外にウェットで日本人より日本的だよ」と言われたのを思い出す。後に社長となられた御手洗肇氏に海外で直接採用していただいて入社したキヤノンへの私の思い入れは強く、所属は研究開発部門だが、他の事業部の人と話をする場合も、上下に関係なく、「ここを直した方がよいですよ」とズバズバ意見を言っていた。もちろん、他の社員も、愛社精神は変わらないし、どの事業部も同じキヤノンであるという認識は同じだったと思うが、習慣や表現の仕方が違ったのだ。日本人スタッフには、会議などで意見を求められたわけでもないのに、他部署の事業部長に意見を言うということは、習慣としてなかった。一方私は、よくしていくための意見を言うのに遠慮をしたり待ったりする必要はない。

頻繁に会うわけでもないのだから、機会がある時に意見や情報を耳に入れておこう。私か言ったことを立場のあるその人がいつ利用するか、どう利用するかはその人が判断するはずだという考え方だった。上司にも他部署にも、言いたいことは言うけれど、自分ができることは垣根を超えて手を差し伸べるといった行動は、日本人には憧れはするがなかなか実践できないことだ。それをやっているから「すごく日本人らしい」という気がしたのではないだろうか。アイルランドに住んでいた頃も、私はよく「アイルランド人よりアイルランド人らしい」と言われたが、人間としてとるべき生き方は共通で、それを目指していれば、どこの国においても「自国人らしい」とされるのではないだろうか。

キヤノンの中央研究所はキヤノンの中で一番早く、1986年に全面禁煙を導入したが、それは私の提案だった。管理職に毎日のように、私ともう一人の女性が文句を言って回ったのだった。研究所を厚木に新設するにあたって、新しい研究所でどんな新しいことをやりたいか、どうやってよい研究所を作っていくのか、各人の提案を研究所の柱に貼り出しておきなさい、他の人はそれに対してコメントを書き込みなさいと、当時の所長であった御手洗肇さんから指示があった。私は入ってまだ日が浅かったこともあり、研究所のテーマについての提案は思いっかなかっだのだが、当時閉口していたのが職場の喫煙だった。インドでも、アイルランドでも、仕事をしながらタバコを吸う環境にはなかったし、煙が立ちこめる職場にいるとそれだけで頭痛がするほど不快だった。それだけは変えてもらいたいと思い、全部の柱に「タバコだけはやめて欲しい」と書いて貼り出したのだ。もう一人、同じ思いだった女性は、日本人らしく、「私たち吸っていない人も病気になります」と言っていたが、管理職たちは「じやあ君が死んだらタバコをやめるよ」と冗談を言うばかりで取り合わない。

私はとにかくタバコをやめてもらいたいとお願いした。そのうち、そこまで言うならと、食堂だけスモーキングエリアにしようとか、所長コーナーだけ喫煙にしようとか、パーティションの陰なら私に見えないからよいだろうと隠れて吸ったりするようになったが、私はどこかで煙が上がるとすぐにわかるので、それもやめてくださいとお願いして回った。当時はまだ私は日本語が話せず、覚えたての「すみません」を連発して禁煙をお願いする姿が健気に映っだのかもしれないが、いずれにしても私たちは当時としては珍しい全面禁煙を勝ち取ったのだ。理由をいちいち説明するのではなく、ストレートに言い分を通すことも、日本でのコミュニケーションにおいては必要だとその時思った。説得しようとすると理由が必要になるので、理由が見つからない要求は持ち込めなくなり、それが限界を作ってしまう。