反腐敗闘争への先制攻撃

「背広を軍服に着替えれば軍を率いることができるのか」。江沢民と軍の主導権を争い、郵小平の怒りを買って事実上失脚した楊白冰軍事委員会秘書長(当時)の言葉が、すべてを言い表している。江は一九八九年に軍事委主席に就任しても、軍の制服組から半ば公然と軽視され、軍を掌握することは容易ではなかった。このため心配した郵小平は、一九九二年の党十四回大会で当時。すでに八十歳に近かった海軍出身の劉華清を党最高指導部である政治局常務委員に加え、江の後見役にしたほどだ。江はその後、国防予算を大幅に増額し、上将(大将に相当)をはじめ軍の上級階級を乱発して軍幹部の歓心を買うことに腐心した。これに対し胡錦濤は九九年、江の下で軍事委副主楽に就任したが、江に足元をすくわれることを恐れ、「軍の運営に全く口をはさまなかった」(党幹部)といわれる。

江は二〇〇二年十一月、胡に総書記を譲るが、軍事委主席のポストは○四年九月まで渡さなかった。このため胡が軍に口を出せるようになったのは○四年以降で、その軍権掌握はまだ緒に就いたに過ぎない。胡が主席に就任した当時の軍事委員は、胡以外は全員制服組で、いずれも江時代に就任したメンバーである。胡の側近や後見人といがる者はいない。前任軍事委主席の江は機会を捉えて胡を牽制することを狙っており、江に対する鄭のような有形無形の支援を期待できない。胡は「江の選んだ軍事委のメンバーに強い不信感を抱いている」(制服組OB)といわれ、○七年の党十七回大会で党政治局のみならず軍事委員会メンバーの大幅な入れ替えを狙ってきた。つまり胡と軍の関係は極めて緊張したものだった。

○七年年頭の胡談話に挑戦するかのような軍の行動の背景には、まず急速な経済発展による国力の充実によって中国で日増しに高まる大国意識が挙げられる。軍のみならず党や政府、さらにマスコミにも「大国にふさわしい強力な外交」を要求する声は強まっており、胡政権の掲げる各国との協調を最優先する「和諧世界」論への不満は表面化している。軍制服組の強硬な発言がマスコミでもてはやされ、それがさらに過激な発言に拍車をかけるという悪循環が見られる。次に軍事委員会に残存する江沢民グループが、強硬論をほとばしらせて胡錦濤を牽制している可能性もあった。二〇〇六年九月、派閥の後継者と目されていた陳良宇・上海市党書記を汚職事件で拘束され一敗地にまみれた上海グループだが、主に党・軍内の強硬論に依拠して捲土重来を狙っている。特に軍の統帥権を握る軍事委員会の主要メンバーは、ほとんど江が主席時代に任命したものである。胡も彼らには手を出しにくい。

さらに、二〇〇六年三月の全国人民代表大会(国会に相当)や○七年秋の党十七回大会を前に、軍の人事、予算要求を突き出すうえで対外強硬論を鼓舞することは、もっとも効果的な手段であったろう。しかし、諸要因の中でも可能性が高いのは、胡が軍権掌握の手段として考えている「反腐敗闘争」への牽制である。中国の軍は建国以来の特権で汚職にまみれているのは有名だ。○六年には海軍副指令だった王守業が一億元(約十六億円)以上の賄賂を呑み込み。多数の愛人をはべらせていたとして逮捕され、その一端が明るみに出た。胡は党の主導権を反腐敗闘争による江沢民派の制圧で勝ち取ったように、軍にも闘争の矛先を向けようとしていた。○七年一月に、党中央規律検査委員会の全体会議で「老虎」(巨悪)を許さない姿勢を強調した直後に「解放軍会計検査条例」を発布し、軍各部門セ常態化している使途不明金の追及を始める姿勢を打ち出した。

軍幹部の強硬な発言が、その前後から急増していることは興味深肩させた中国の「反日」運動の背後には、自本叩きを権力闘争の具にした党内の対立があった。今また、軍が鼓舞する対外強硬論の背後に、既得権益を守ろうとする軍幹部と、党の検察権力を使って彼らを追い詰めようとする胡指導部の攻防があるとすれば、共産党の末期症状もここに極まったというほかない。そして、自らの権益を確保しようとする軍人が大衆やマスコミの強硬論を煽り立てて政府に圧力をかける構図こそ、戦前の日本に出現したものにほかならない。日本は中国に先駆けてアジアで最も早く近代化に成功し国民国家を成立させたが、軍の暴走に国全体が引きずられ、破滅の淵に沈んだという歴史をもつ。中国は日本に一世紀以上遅れて近代化を達成し、香港、マカオに続く台湾の統一で国民国家の完成を目指しているが、経済発展に増長し沸騰するナショナリズムにおぼれ、軍事大国化の道を歩むことになれば、がっての大日本帝国と同じ運命が待ち受けているであろう。