北アイルランド紛争

こうした報復が続く限り紛争再開の可能性は消えないばかりか、紛争が再開されたらアルバニア本国の介入もありうる。また最南端のマケドニア共和国では、二〇〇〇年半ばになって戻りはじめているというが、コソボ難民も含めて多数のアルバニア人かおり、こちらも状況は同じなのである。わずか百年の間に統合と解体を繰り返した「ユーゴスラビア」地域であるが、今後も火種はなくなりそうにない。世界の新しい枠組みのなかで、彼ら自身が効果的な方策を打ち出すことができるだろうか。

北アイルランド紛争の対立の構図は、わりあい単純化される。当事者の一方は、ケルトの血を引くアイルランド系(ゲール)でカトリック教徒のナショナリスト、これに対するはアングロ・サクソンの血の濃いイングランド系でプロテスタントユニオニストである。ユニオニストとは、この場合、イギリスとの結束にこだわる人々をいう。

数百年におよぶ対立の発端は、イングランド王国による度重なるアイルランド侵攻にある。とくに一六世紀にヘンリー八世がローマーカトリック教会と訣別して以来、カトリックの浸透していたアイルランドの住民には宗教的な弾圧も加って、アイルランド問題はカトリックプロテスタント英国国教会)の宗教対立という色合いを濃くしてきた。

カトリックに対する弾圧は、一七世紀、清教徒革命の指導者オリヴァー・クロムウェルによる独裁政治の時代に頂点をきわめるが、その後も、政治・経済・文化など、あらゆる面でカトリック差別が続けられた。キリスト教内部での対立といえば、多数派カトリックによる少数派プロテスタントへの迫害がふつうだった西欧社会にあって、アイルランドでは、多数派カトリックが徹底的に抑圧された点が特筆される。

とはいえ、長い抑圧の歴史のなかには、カトリック教徒の扱いがいくらか改善された時代もある。政治と経済の要を握るプロテスタントと貧しい小作農のカトリック教徒という図式はあいかわらずでも、一九世紀前半のアイルランドは社会全体としてはかなり落ちついていた。ところが一八四五年から五年間、空前の大飢饉が起こる。

主食のジャガイモを繰り返し襲った立ち枯れ病は、飢饉慣れしているといわれたこの地の農民をさえ、絶望的な状況に追い込んだ。一八四一年に八一八万人を数えた人口は、十年後、六五五万人に減少したが、このうち犠牲者はおよそ一〇〇万人が死者で、残りが島を逃れた人々である。行き先はイギリスのほか、アメリカやカナダ、それにはるか彼方のオーストラリアやニュージーランドだった。